2009年7月12日 (日)

18. 中間的なまとめ その2

本章では、これまで「武蔵学園の20世紀後半」であえてとりあげなかった、二つのトピックス「受験産業」と「センター試験」とをLiberal arts and sciencesとの関係で取り上げることにしたい。

これまでこの二つにあえて触れなかったのは、これらのトピックスは今日21世紀の課題でもあるからである。次章以下の21世紀の課題のところで取り上げるべきかとも思ったが、時系列的には両者とも20世紀後半からの問題であるので、本章の位置、即ち20世紀後半と21世紀の間の「中間的なまとめ」の位置で取り上げるのがふさわしいと考えた。

はじめに、この二つのトピックスに密接に関わる「偏差値」という概念について、整理してみたい。

l  偏差値は、統計学上の概念である。

l  たとえば、射的などの試技をして、100点満点で、最高得点者が90点、平均点が60点、最低得点者が30点であったとする。

l  試技者が十分に多数存在し、ひとりあたりの試技が平等に十分の回数行われたとすると、30点から90点までの間で得点者は正規分布するはずである。

l  この分布を0から100迄の数値に置き換えたものが偏差値である。平均の60点を取った者の偏差値は50となる。

l  得点の分布が正規分布に近い場合は、40から60の間に約68.3%30から70の間に約95.4%20から80の間に約99.73%10から90の間に約99.9937%0から100の間に約99.999953%が含まれる事が知られている。

l  教育における「偏差値」は、上記の試技による得点の代わりに概ね「算数」「国語」「理科」「社会」など複数の科目の試験に、適当の配点を行った合計得点を用いる。

l  受験者の得点が正規分布に近い分布をするように、多数の受験者に同じ問題による試験を課すと、受験者の母集団における個々人の「偏差値」が求められる。

l  教育における偏差値には、「生徒の偏差値」と「学校の偏差値」とがある。生徒の偏差値は、ある母集団(全国民の同世代に共通に行われる試験の受験者とか、巨大な受験産業が実施する全国模試の受験者)における特定の生徒の序列を意味する。

l  「学校の偏差値」は、前記の生徒の母集団のなかで、当該学校の入学試験に合格する者の上限値と下限値によって求められる。

l  「学校の偏差値」は、単純に当該校の最低点合格者の母集団における偏差値で示される場合もある。その場合には、「学校の偏差値」とは、母集団のどの位置にいれば当該校に合格することが出来るかを意味する値となる。

以上見てきたように、「偏差値」という概念は、スカラー量的な概念である。これを教育に用いることの問題点は、入学試験や模擬試験は射的のような単純試技の繰り返しではなく、学校ごとに問題の傾向も違い、また複数科目の試験に、適当の配点を行った合計得点を用いることにある。

実際には、「算数の得点」「国語の得点」などはそれぞれ方向を持ったベクトル量であり、これらの科目点の合計が受験者の能力そのものを現すわけではない。また、同じ科目内の問題であっても、「考えさせる問題」「時間内の処理能力を問う問題」「記憶力を問う問題」等がそれぞれあり、問題の傾向によって、また問題間の配点によって、受験者の偏差値はかなり異なってくる。特定科目の問題が難しく、別の科目の問題が易しい場合、合計点で偏差値をとれば、他の場合と結果が異なることも容易に想像できる。

平たく言えば、個々の受験者の能力に変動がないと仮定しても、問題の出し方や科目間の配点によって個々の受験者の母集団における序列がかわってくるのである。人間にも学校にもそれぞれ個性がある。個性は、同一の基準では測定できない。多様な基準で測定をして、ある時には高いスコア、ある時には低いスコアが出て、はじめて「おのれの真の姿」を知ることが出来る。

それにもかかわらず、人間は時に「非常に多数の母集団の中で、自分はどの序列にあるか」を知りたいという誘惑に勝てない。また、「一定の母集団の中で、どの程度の位置にあれば、目的とする学校に合格できるか」を知ろうとしたときには偏差値はある意味で便利な数値である。よって、受験準備をする場合などでは、ついつい偏差値を用いる誘惑にかられがちとなるのである。

さて、戦後の日本社会が復興を遂げ、高度経済成長の波に乗る頃、中学受験の世界も、大学受験の世界も競争が漸く激しいものになって行った事情については、既に述べた。その中で台頭してきたのが、いわゆる「塾」「予備校」という名の巨大受験産業であった。

はじめ、これらの受験塾は、特定の学校に入学をめざす受験生のための「傾向と対策」を教えるための産業であった。(戦前には、海軍兵学校や陸軍士官学校をめざすための塾があった)

ところが、受験競争が激化するとともに、受験生は、第一志望校だけではなく、第二、第三志望そして、「滑り止め」用と複数の学校を受験するようになっていった。もちろん校風が正反対の学校、受験科目や問題傾向がまったく一致しない学校を複数受験するというわけではなかったであろう。

が、複数校を受験すれば、どうしても準備のための受験勉強の方向はシャープなものになりにくく、一般的、基礎的な勉強を重ねることによって「どこにでも入学できる」実力を涵養することに向かわざるを得なくなる。その結果、たとえば、「地域全体の同世代の受験者の中で自分がどの位置にあるか」を知り、その自分の位置から逆算して志望校を決めるという倒錯が、当然のように行われるようになった。

「地域全体の同世代の受験者の中で自分がどの位置にあるか」を知るためには、なるべく多数の受験者が参加する、しかも標準的、平均的な問題による模擬試験で偏差値を求めるのが、もっとも適当な手段である。そして、その偏差値を見て「自分の実力相応の学校」の中から、居住地、授業料、校風などを考慮して志望校選択が行われるようになっていった。

一方でこのような広範な模擬試験の結果を用いた学校選択は、「学校の序列化」をも招いた。標準的、平均的な問題による模擬試験でどの程度の偏差値をとれば、その学校に入れるかが自から分かってしまうようになると、今度は「学校の偏差値」に関心が集まるようになる。模擬試験で思わぬ高スコアをとったものは、自分の意中になかったような有名校に「合格可能」であることを知らされ、ふらふらとその有名校を受験するようになる。戦後の企業社会は、そうした「偏差値の高い学校」の出身者が必ずより幸福となれるような錯覚を与えるような社会でもあった。そのような社会では、学校の個性が問題なのではなく、偏差値の上での学校の序列だけが問題とされるのである。

また、受験塾の側も、地域全体での受験者の位置を測定するサービスを提供するために、どんどん巨大化せざるを得なくなっていった。特定校の「傾向と対策」サービスを提供する小さい塾は次第に淘汰され、主要駅ごとに出店のある巨大ネットワーク型受験産業の時代が来たのである。

ここまでは、受験という名の市場の自然の成り行きとして、容易に想像できる。が、問題はそれだけにとどまらなかった。

はじめは、「偏差値による学校序列化」が受験界でおきようとも、とくに私立の個性的な学校は「学校序列」にはあらわれない隠れた人気に支えられて、受験者を確保することが出来た。また、自らの校風、個性、教育方針に合致した受験生を合格させるために、「平均的・標準的」ではない傾向の問題を出題することもできた。だが、巨大受験産業の側から見ると、このような個性を持った学校の存在は、次第に自身の営業に差し支える目障りな存在となって行ったのである。

受験産業とは、どのようなサービスを受験者あるいはその保護者に提供する存在かを下記に整理してみる。

l  地域横断的な、多数の参加者による統一模擬試験

l  模擬試験の参加者が実際どの学校に合格したかのデータの掌握

l  上記データによる「学校の偏差値」の付与

l  上記のデータに基づく合否予測(次の模試で何点をとればどこに入れるか)

l  合否判定予測に基づく進路指導

l  「平均的・標準的」な問題の反復演習による受験者の学力向上

l  受験者の志望校への「傾向と対策」指導

上記のサービスを効率よく提供するためには、二つの条件が存在する。一つ目には、「平均的・標準的」な問題による一回の模擬試験で、あらゆる学校の合否判定を的確に出来ること。二つ目には、複数学校の受験準備を効率的に進めるために、一般的、基礎的な学力を向上させ「どこにでも入学できる」実力を涵養することである。

これら二つの条件は、いずれも学校側の個性の追求に相反する。なぜならば、「平均的・標準的」な模擬試験問題に外れるような出題は受験産業側の合否予測を狂わせる(受験産業側の模擬試験結果が通用しない)し、「平均的・標準的」な問題への解答力養成をめざす「一般的、基礎的な学力向上策」も通用しないからである。こうして受験界のレディーメイドにあわない、注文服のような出題にこだわる個性的な学校は、次第に「受験産業の敵」とならざるを得ない宿命となっていった。

受験産業も、最終的には受験者の志望校への「傾向と対策」を指導する存在であるから、強い志望者が存在する学校にはそれなりの敬意をはらうには吝かでなかった。だが、合否予測に基づく進路指導の場面では、「平均的・標準的」な傾向から外れる入学試験問題を出す学校には「難問・奇問」の汚名を着せ、極力受験者がそのような個性的な学校を志望しないように誘導せざるを得なかった。(模擬試験の偏差値が高いものが落第し、低いものが合格するようでは、模擬試験を実施した塾の権威が損なわれる)一人でも多くの受験者を、模擬試験の偏差値から類推した「実力相応の学校」に合格させることが、受験産業としての効率的経営に適うことであったからである。

既に見てきた武蔵高校・中学の事例だけではなく、欧米においても、Liberal arts and sciencesは、「読書(実験、フィールドワーク)・作文・討論型」授業を通じて、作文力、推論力、構成力、論証力、表現力などを涵養することを主たる方法としている。このような方法に耐える者を選抜するためには、当然「読む力」「書く力」「考える力」さらには「想像力」「創造力」を試す入試問題が必須となる。

それは、今日の「平均的・標準的」な模擬試験の出題傾向よりも一層、記述式、長文読解、複雑な推論や演算などが求められる。(さらに言えば、記述式、長文読解、複雑な推論や演算などはいずれも試験のオペレーション上は、採点しづらい不効率なアイテムである。大量の答案を公平且つ迅速に処理しようとすれば、後に述べるセンター試験のように短答式を中心とした出題とならざるを得ない)このように考えるとLiberal arts and sciencesの追求は、戦後日本の受験産業の発達とは乖離した方向をめざすものであったと言えよう。

さて、最後に「共通一次試験」あるいはその後身である「大学入試センター試験」について触れることにしたい。

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大学入試共通第一次学力試験は、1979年から1989年までの間、国公立大学及び産業医科大学の入学志願者を対象として共同して実施した基礎学力をみるための共通試験である。試験は、国語、数学、英語、社会、理科の5教科について行われた。実施は、国立大学の共同利用機関であった大学入試センター。(中略)

共通テストの構想は1960年代以降文部省やその周辺から発案されていたが、1970年代に入って政府及び与党の推進により実現する運びとなり、国立大学協会の賛同を得て、入試問題の難問・奇問の出題をなくし、「入試地獄」を緩和するために導入されたものである。

Wikipedia「共通一次試験」

1979年から1989年までの間、国公立大学の入学志望者を対象とした「大学共通一次試験」(共通一次)が実施されていた。これは、入学試験問題において奇問・難問の出題をなくしたり、歴史などの重箱の隅をつついたりするような設問をなくし、一定の学力基準を測るものとして導入されたものである。しかし、実際にはこういった設問を完全に排除することができず、1990年から、国立大学の共同利用機関である大学入試センターの実施する「大学入試センター試験」に変更し、私立大学も試験成績を利用できるようにするなど、試験自体を流動性のあるものに改めた。

Wikipedia「センター試験」

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共通一次試験は、なぜ導入されたか。その真の理由は、当時も今日もいまひとつ分明ではない。

フランスにおいて行われている「バカロレア」に範をとったと言われているが、バカロレアは大学進学資格試験の色彩が強く、共通一次は大学の選考試験の一部分であるから、やや趣を異にする。

また、共通一次試験を利用した受験者のいわゆる「足切り」は導入の当初はかなり忌避された。

もし、共通一次試験を利用して、想定合格者の約三倍程度まで受験者を絞り(受験者の基礎学力の検証)、その後に相当程度ユニークで手間のかかる二次試験を(自校向きの受験者を選抜するために)選考試験として実施するような使い方をすれば、この制度はかなり有用であったかもしれないが、実際にはそのようにならなかった。

むしろ共通一次試験導入の狙いは、「入試問題の難問・奇問の出題をなくす」という名の下に、大学によって入試問題の傾向が違うことを排除し、出題を平準化することにあったと思われる。

さらに言えば、「入試地獄を緩和する」こととは、それまであった国立大学一期校、二期校の区別を撤廃して国立大学を一つしか受けられなくすること、そして、一次では大学入試センターの試験だけを受ければよいようにすることによって、出題傾向の違う複数の大学のための受験準備をする負担から受験生を解放することであったように思われる。

以上が、世間で標榜された「入試問題の難問・奇問の出題をなくす」「入試地獄を緩和する」という目的から類推できる、共通一次試験導入の狙いであるが、このほかにも下記のような事情があったのではないかと筆者は想像している。

l  当時の国立大学の中には、良質の入試問題を作れないような粗悪な大学もあった。難問・奇問だけでなく、粗雑な問題、答えられないような問題も中にはあり、入試問題の品質向上が実際に必要だった。

l  同じく、一部国立大学の教員には、入試の負担(出題・監督・採点・など)過重への不満があった。共通一次試験導入により、楽をしたいという欲求が大学側にあった。

l  高校では、志望校の入試に出ない科目の勉強がおろそかになる傾向があった。(このことは後に私立大学にセンター入試利用を促す契機となった)

l  戦後学制改革以来の、公立学校はどれも「同じ顔をしている」一方で、「一つの基準による序列があるべき」という考え方。

l  国立大学教育全体を自己の基準で監理したいという政府(文部省)の欲求。

いずれにしても、共通一次試験導入の狙いは今ひとつ判然としないが、その効果はきわめて明らかであった。これによって、全国同世代統一試験という格好の「偏差値計算のスキーム」が生まれ、「平均的・標準的」でしかもそれなりには良質の入試問題によって、あたかも公平に、全国の大学と大学受験者を序列化することが可能になったのである。

そして、「偏差値」はたちまち「受験者の偏差値」から「大学の偏差値」に及んだ。それまでも、全国型巨大受験産業の実施する模擬試験によって、非公式に、「生徒の偏差値」「学校の偏差値」は付与されてきたのだが、ここに公的な権威を持つ「偏差値の源泉」が生まれたのである。共通一次試験、センター試験は、大学の序列化を正当化する究極の国民イベントとなっていった。

「同じ顔をしている」一方で、「一つの基準によって」序列化された大学の群れ。それは、もはや企業社会への通過儀礼として、疑似高等教育を施す存在に過ぎない。

20世紀末、Liberal arts and sciencesという言葉は、もはや日本の大学制度とは無縁のものになっていった。

17. それからの武蔵(大学)

前章の高校・中学に続き、本章では、「それからの武蔵大学」が、どのような内実と社会的位置とを保ちえたかについて見ることにしたい。

武蔵大学においては、教育の内実より学校運営のあり方が、この時期を境に大きくかわった。公選制の学長を持ち、複数の学部が各々教授会を持って決定権を分かち合う体制が出来た結果、大学の規模に対してやや不相応に複雑な意志決定のメカニズムが生まれた。

筆者は、私学経営のあり方を、三つに分類している。

l  大私学型(学園の経営を教員出身の理事会が行い、卒業生等の外部者が評議員会のメンバーとなって理事会を間接的にコントロールする方式)

l  中私学型(学園経営は、経済界出身者等を中心とする理事会が、教育研究を担う学校内部の意志決定機構と協調しながら行う方式)

l  小私学型(学園経営は、学園創始者の家族等を中心とする理事会が行い、教育研究部門は従業員として理事会に従属する方式)

上記の分類を適用すれば、今日も武蔵学園は明らかに中私学型の分類に属する学園である。

しかしながら、武蔵大学では、教育研究部門の内部の意志決定メカニズムが複雑化した結果、いわゆる大私学型の学園経営を求める教員が漸次増加していった。

私立学校法に基づく私立学校は、財団か社団かの分類で言えば財団組織である。財団組織においては、経営責任を持つ理事会は、前任者が後任者を選任する方式、換言すれば「創始者が寄託した財を管理することを代々委任された理事者」による経営が常態である。(社団にあっては、株主、会員、社員等主権を持つ者の選挙によって経営責任を持つ者が任命される)

一方、学校教育法は、教育研究分野においては学校の責任者である学長・校長が、外部から干渉を受けずに運営を行えるように様々の権限を委ねている。私学における学長・校長の任免権は理事会にあるが、慣行的に教員による公選が行われるようになると、選挙権者である教員は学校運営を社団的に行い疑似主権者として運営に参画できるようになる。(このような学校の社団的運営は、国立大学においては、いわゆる「大学の自治」の文脈で語られる場合が多い。が、いわゆる「大学の自治」の問題は、国家権力に対する思想信条の自由、あるいは学問の自由との関係で語られなければならないので、私学経営の問題とはやや位相を異にしていると筆者は考えている)

いずれにしても、財団的経営と社団的運営のバランスを上手にとることが、とくに中私学型の私立学校の場合重要である。が、武蔵大学の場合、自ら少数教育を標榜し、経営規模も早慶などのいわゆる「大私学」並みではない(従って経営体質は、本質的に脆弱である)にもかかわらず、また高大二つの学校が同じ学校法人内に独立して併存するにもかかわらず、この時期以降、学園の経営自体を大学教員が中心的に行おうとする「大私学」志向が生じてきた。さらに、正田が生前、「学制生徒納付金をもって学園の経常収支をまかない、施設費は別に寄付等の財源を求める」という構想を語っていたのを曲解し、「学生生徒納付金の処分権は教員にあり、施設への投資は理事者(法人部門)の責任である」というに近い主張がなされることさえあった。この種の主張は、たとえば企業の場合であれば、「生産設備は会社のものだが、経常利益の処分権は営業部門にある」というに近い、かなり奇妙なものである。が、こうした奇妙な主張がなかば公然と行われるようになったのが、「それからの武蔵大学」の一つの特徴である。

もっとも、正田健次郎の主導した五十周年事業以降しばらくの期間は、学園の経営からみると比較的平穏な時期で、理事会、あるいはその執行機関である法人部門(専務理事麾下の学園の事務局部門を「法人部門」と呼んだ)が、経営サイドから学校運営に干渉する必要も機会も殆どなく、片や学校側も巨大な投資を要する案件を理事会に提起しなかったので、上記の矛盾はそれほど顕在化したわけではなかった。人文学部開設以降の目立った現象として言えば、学校法人根津育英会の理事会に占める、いわゆる学内理事の比率が漸増したことが挙げられる程度である。

一方、社会的位置ということからすれば、折々の「大学ランキング」における変動はあったものの、武蔵大学の位置は、概ね次の範囲を動くことはなかった。

l  Liberal arts collegeとして、企業社会の「初級士官」を養成し供給する大学

l  専門課程に研究者としての教員はいるが、大学院に進学する者は極端に少ない

l  「研究」よりは「教育」にタスクを負う大学

l  学生にとっての居心地はかなりよい

l  社会のごく一部から教育の質への評価は得ているが、知名度はかなり低い

l  旧制七年制高等学校から受け継いだリソースは、校地・校舎を除いて少ない

l  少数教育で卒業生も少なく、外部の社会へのインパクト(影響力)は小さい

だが、若年人口が減少し「市場のパイ」が縮むまでの間、武蔵大学は「経営状態が悪化しそうになると、学費値上げか定員微増でしのぐ」その場しのぎの経営を続けることが出来たのである。

最後に、中学高校についても大学についても、前章、本章でそれぞれ述べた「学校運営のあり方、学校経営の意志決定メカニズム」の問題とLiberal arts and sciencesとがどう関わるかについて、述べておきたい。

以下は全く筆者の私見であるが、筆者はUniversityCollege就中Liberal arts collegeでは、運営のあり方にかなり大きな違いがあるのではないかと考えている。

欧米ではUniversityというものが、かなりの程度に盤石な経営基盤(私立の場合は莫大な不動産と運用のための金融資産、国立の場合は国家政府の強力なスポンサーシップ)の上に立って教員間の共同統治により運営されているのに対して、Collegeは経営基盤がやや脆弱で、しかも市場の競争にさらされやすい故に、経営面、運営面とも強いリーダーシップが求められているのではないかと筆者は思う。19世紀から今日まで、いつの時代にも、たとえば英国のパブリックスクール、ラグビー校のトマス・アーノルド校長に象徴されるような、個性の強いリーダの存在がLiberal arts collegeをして市場の競争を耐え抜かせる不可欠の要素のひとつではないかと思うのである。

16. それからの武蔵(高校・中学)

本章では、武蔵学園五十周年記念事業以降の、「それからの武蔵」が、どのような内実と社会的位置とを保ちえたかについて見ることにしたい。

まず、高校・中学は、内実においても、社会的位置においても山本良吉時代以来の「黄金期」を迎えた。大坪秀二ら戦後派の教員達が、時間をかけてつちかってきた、ラディカル・リベラリズムとも言うべき思潮は、この時期正田建次郎の承認と支持の下で、独特の校風として結実した。

受験競争が激化し、周囲の高校がどこも教課、授業の中でも受験を意識した取り組みをはかる中で、武蔵はなにごとにも生徒の自主性を尊重する自由な校風の下、進路指導にも受験対策にも「知らぬ顔」を決め込み、着々Liberal arts and sciencesを講じた。

しかも蓋を開けてみれば、東大のみならず、京大、一橋大、東工大、早大、慶大、医系大などに続々進学するという「実績」も確保していた。

筆者はこのような「第二期黄金時代」初期、まだ正田建次郎在世の頃に武蔵高校・中学に在籍した。その経験から、当時の武蔵の教育がどのようなものであったかを描写してみたい。

まず、武蔵のLiberal arts and sciencesと言うとき、筆者にはそれへのアプローチについて、文科系、理科系それぞれにはっきりしたイメージがある。文科系のそれは、「原典の通読」である。古文、漢文、英文あるいは現代日本語による原典を、教室の生徒が全員通読した上で、各自がその部分を分担して調べ、時に訳し、レポートを書き、教室で発表し、それについて教員も交えて討論する。

理科系にあっては、実験、フィールドワーク、調査など「自然に直接触れる」営みがあり、観察者がレポートを書き、教員も交えて討論する。(理科の場合にも、英文の原典講読があった)

こうした営みを、筆者は「読書(実験、フィールドワーク)・作文・討論型」教育と名付けている。この営みによって、生徒は「本物に触れ」そして「自ら調べ自ら考える」力を養うことが出来る。

今日武蔵が「本物教育」と呼んでいる知へのアプローチのスタイルがこれである。

上記と対置されるものが、日本の殆どの学校の日常の営み、すなわち「講義・設問・解答型」教育である。「講義・設問・解答型」教育にあっては、まず生徒が獲得すべき知識の定められた集合があり、それをひとつひとつ教員が「わかりやすく」「要領よく」講義し、生徒はまず講義を記憶する。次に教室で問題が出され、問題を解き、答えることを通じて、生徒ははじめに得た知識の応用を練習し、解答力を養う。「講義・設問・解答型」は時間効率がよい(短時間に多くの知識を教授できる)。また「講義・設問・解答型」は問題の解き方をパターン化できる。「問題の解き方、回答の仕方の技術」を養うことで応用力・解答力を増進させる。だが、「解答力」は「考える力」そのものではない。

中世の私塾は知らず、「読書(実験、フィールドワーク)・作文・討論型」授業だけで近代以降の学校を運営することは出来ない。「読書(実験、フィールドワーク)・作文・討論型」授業は無限に深めることが出来るので、たとえば、物理の実験や漢籍の古典だけを扱って数年間を過ごすことも可能である。一方で「近代」が求める、あるいは「学習指導要領」に定める知識の集合を、たとえば中等教育の数年という時間内に獲得しようとすれば、「講義・設問・解答型」授業の併用は必須である。

だが、「講義・設問・解答型」授業だけで知の授受を行おうとすれば、「解答力」を育てることは出来ても、ほんとうの意味で「考える力」を養うことは出来ない。のみならず「読書(実験、フィールドワーク)・作文・討論型」授業は、それを通じて、作文力、推論力、構成力、論証力、表現力など社会生活に必須の能力を涵養することにつながる。これらの能力は、今日、国際競争の中で日本人に欠けている能力として広く指摘されているものばかりである。さらにいえば、Fundamentals諸学を学ぶのに「読書(実験、フィールドワーク)・作文・討論型」授業は不可欠であるが、Applications諸学を学ぶには「講義・設問・解答型」授業で十分な場合があるとも思う。

昭和40年代の武蔵中学・高校での筆者の経験からすれば、武蔵の教育は可能な極限まで「読書(実験、フィールドワーク)・作文・討論型」授業に傾斜していたように思う。その結果、当時であっても、武蔵の授業やカリキュラムだけで一流の大学に進学するというのは、なかなか難しいことであった。自宅へ帰って毎日周到な復習と問題を解く練習に精励している者は知らず、多くの生徒は高校3年になれば、校友会活動(部活動や委員会活動)からも引退して、学校の外で受験塾や家庭教師などの世話になって、いわゆる受験勉強にいそしんでいたと思う。

理想のLiberal arts and sciences教育は、それ自体受験向きではない。「考える力」を学校が養成してくれた後は、自宅で学習をするか、または適宜受験塾などの力を借り、学校の外で「問題を解く解答力」を養うことでバランスをとっていたのである。そして、生徒のそのような「裏の努力」に対し、教員は「知らぬふり」をしていた。家で自習するのでも、塾に行くのでも、それは生徒自身の責任による実践の範囲に属することであり、学校はあくまでも「自ら調べ自ら考える」力そのものを与える機関なのであった。

筆者はここに述べた教育スタイルの方が、「制服がない」「校則が少ない」などの表面に現れた「校風」よりも、より本質的なことだと思っている。だが、そうした目に見える校風や、学校運営のやり方も重要なことではあると思うので、以下に、戦前の武蔵と戦後の武蔵の比較を表にまとめてみた。

戦前期(山本良吉の武蔵)

戦後期(大坪秀二の武蔵)

Liberal arts and sciences

Abilityのある年少者に、Liberal arts and sciencesを授け、知的刺激を与えて「学」に誘う

超大学級の教員による動機づけ

Abilityのある年少者に、Liberal arts and sciencesを授け、知的刺激を与えて「学」に誘う

実験、フィールドワーク、原典を重視した「本物教育」

生活指導・風俗

独特の価値観による「訓育主義」

旧制高校的バーバリズムの否定

年長者の自堕落を嫌い、尋常科の仕躾を高等科にも求める

生徒の自主性の尊重

制服なし、校則の少ない「自由な武蔵」、生徒に責任ある行動を求める

年長者は「大人扱い」

英才教育

Explicitな英才教育

落第を武器にしたガリ勉奨励

学問という飴、落第という鞭

Implicitな英才教育

「考えさせる」中学入試問題

勉強しない生徒には冷たい

大学受験

前向き

表だって、受験指導はしない

戦前期(山本良吉の武蔵)

戦後期(大坪秀二の武蔵)

学校運営

校長独裁

教員の合意形成重視

労務管理

恣意的、教員の採用と給与額は校長が評価して決める

学科研究室の推薦による教員採用、教員の待遇保証、(評価なし、年功による自動昇給)

このようにまとめてみると、Liberal arts and sciencesと英才教育というテーマについては、戦前の武蔵も戦後の武蔵もかわらないように思う。ただし、英才教育については、戦前の露骨にギラギラとしたそれから、戦後の方がやや洗練された装いをもったものにかわってきた感じはする。が、本質においては、「知的に可能性のある年少者を選び」「かなり高度な知的刺激を与え」「学の世界へと誘う」という武蔵の教育のあり方は、あまりかわっていない。

一方で、戦前も戦後も、武蔵は勉強をしない者や知的刺激にこたえられない鈍才にはかなり冷たい。戦前は、ついて行けない者には容赦のない落第、放校の運命が待ち構えていたし、戦後においても、「出来ない者を落伍させない」という意味での面倒見は、余りよい方ではなかったように思う。(余談であるが、いわゆる熱血漢タイプの先輩から、在校当時の教員の厳しさ、冷たさに対する批判や恨みを聞く機会が、今日もままある)

戦前、戦後で大きくかわったのは、「生徒を子供扱いして厳しく躾けるか」「生徒を大人扱いして自由を与え自覚を促すか」という点と、校長のリーダーシップのあり方であろう。

前者について言えば、「学校生活の自由さ」が、戦前、戦後の目に見える校風の中でもっとも対照的な部分であろう。筆者自身の経験から行っても、旧制期から戦後初期までの先輩からは、武蔵での生活について「自由」という言葉はまったく聞いたことはないのに比較して、自分たちから後の世代では、学校生活について誰でも第一の特徴に挙げるものは「自由」であるように感じられる。

後者について言えば、歴代の校長はそれぞれ個性があり、リーダーシップのある人もない人もいた。そのなかで、第三代校長山本良吉と第八代校長大坪秀二のリーダーシップが傑出していたことは明らかである。が、二人のリーダーシップの発揮の仕方はかなり対照的であった。山本の学校運営が文字通りの独裁者のそれであったのに対して、大坪の運営はいわゆる機関中心主義で、すくなくとも建前の上では教員間の合意形成重視であった。(山本が開校時から、教頭として学校運営を実質的に任されていたのに対して、大坪は教員の中から若くして教頭に就任したため、年長の同僚が多数いたことも、二人の異なる学校運営スタイルの理由の一つであったろう)

しかもなお、大坪が重視した教員間合意形成のメカニズムは、大坪の在任中は、校長のリーダーシップ発揮の阻害要因になることがあまりなかった。だが、教員の労務管理も含めて、大坪の学校運営は、本人の傑出した個性によってのみ操縦可能なシステムであり、後任者が誰でも操縦できるものではなかったように、筆者には思われる。

大坪が去った後に、幾ばくかの課題を残した所もなしとしない。

15. 「すすき川の境界」

武蔵の高校・中学は、どこで「開成・麻布・武蔵ご三家」の一角となったのか。あるいは武蔵高校・中学は、どこで武蔵大学と袂を分かつことになったのか。

社会の側から見れば、前述の東京都における学校群制度の導入が、決定的意味を持つように思われる。学校群制度導入の時期より数年ほど前から、いわゆる進学指導に逡巡する都立高校を横目に、東京教育大(現筑波大)付属、同駒場、東京学芸大付属のような国立中高一貫校や、麻布高校、開成高校など旧制中学系の私立中高一貫校が受験界から注目されるようになってきた。

そして幸か不幸か、新制武蔵高校・中学も1960年代に入るとこれら「進学」型中高一貫校の一角を占めるようになった。校風から言えば、当時も今も武蔵は都立高校ほどの進学指導すらしなかったが、旧制七年制の時代からの英才教育の伝統と、Liberal arts and sciences教育による中等教育初期からの年少生徒への学問の動機づけが相まって、東大、京大、東工大、一橋大、早大、慶大、各医大等戦後社会で「高序列」を占める大学への進学率はかなり高かった。そのことと、社会の側のニーズが呼応し、さらには日本進学教室など当時の受験塾の「武蔵推奨」などが相互に作用した結果、「正のスパイラル」が生まれ、今日で言う「学校ランキング」「偏差値」は急速に上昇し、武蔵はこの頃から麻布開成と並び称せられる「受験界の名門御三家」の一角とされるようになった。「受験界の名門」になれば、中学入学者もその保護者も、将来の進路として眼中に入るのは東大、京大、東工大、一橋大、早稲田大、慶應大等であり、武蔵大学は全く視野から外れていった。

一方武蔵大学では、「少数教育」「ゼミの武蔵」を標榜し、他の新制高校から入学してきた学生たちが、経済学専門課程の教員を囲んで、「アカデミックな経済学」を学び、そして多くは社会の中堅層を占めるただのサラリーマンとして巣立っていった。

戦後日本は高度経済成長の波に乗り、人口自体も、高等教育機関へ進学する者も著しく増加したので、武蔵大学は経営的に見れば、当初危惧されたような困難に逢着することもなく、定員を満たしていくことができた。しかし前述した社会の中でいかなる位置を占めようとするのかというidentityは曖昧なままであった。

l  5代校長宮本和吉が志向した旧制高校の延長としての文理科大学

l  当時の理事宮島清次郎が志向した、今日のビジネススクールに当たるような職能学校

l  初代経済学部長鈴木武雄が志向した、高等教育専門課程として経済学を学ぶ単科大学

そのどれもが、十分には達成されぬままに、武蔵大学の草創期は過ぎた。

このような状況下で、武蔵は創立50周年(1972年)を迎えようとしていた。1965=昭和40年に着任した第七代校長(大学第三代学長)正田健次郎(大阪大学総長・数学者)は、中学高校の教頭に大坪秀二を任命した。このことは、大坪個人への信任ばかりではなく、戦後学制改革後の15年余の間に育ってきた「戦後派」教員たちの志向する自由な、生徒を大人扱いする校風に、学校の指導者として最終的な承認を与えるものであった。一方で正田は、着任後ただちにLiberal arts collegeを志向して武蔵大学人文学部の開設に着手した。武蔵学園史年報第14号をみると、当初正田は、人文学部のほかに理科系の学部を検討した形跡が見られる。このことは明らかに数学者正田が求めたものが、Liberal arts and sciencesであったことを物語っている。(正田は武蔵に着任する前、大阪大学において「基礎工学部」を創設した実績を持っている。その詳細についてはここでは割愛するが、applications諸学のひとつである工学にfundamentalsの概念を導入した点で興味深い事績である)

武蔵大学の人文学部開設は順調に進められ、1969年4月武蔵高校・中学は創立以来の校舎を新たに生まれる大学人文学部に明け渡し、江古田校地の南半分に新校舎を建設して移っていった。

筆者は当時代表委員長として、移転の際の生徒代表の立場であったが、なにか武蔵の歴史の大きな転換期に自分がいるという実感を持ったことをよく覚えている。

武蔵学園史年報第14号によれば、正田は将来の学園を構想する中で、大学生と高校中学生が雑居する当時のキャンパスのありようを否定して、今後両者が独自にそれぞれの教育を全うするために「すすき川」を境とするキャンパスプランを提案したとされている。

ただし、このことは一方で、その後の約四十年間にわたる大学と高校・中学とのいわば「家庭内別居」状態を招く結果ともなった。正田の事業がなくても、教育機関として両者は分岐して行く運命にあった。が、正田がこの五十周年事業を完成した直後に急逝したこともあって、学校法人根津育英会傘下の二つの学校が、それぞれのLiberal arts and sciencesを求めながらすすき川を境に背を向けあうという状態が長く、固定されてしまったともいえよう。

ともあれ正田建次郎が主導した、武蔵学園五十周年記念事業により、武蔵大学と武蔵高校・中学は、学校法人根津育英会傘下の二つの、それぞれ別のLiberal arts and sciencesを求めるcollegeとして正式に再出発することとなった。

正田はその最晩年に初代学園長に就任、大学には選挙制の学長を置き、高校・中学の校長には大坪秀二を任命した。このことにより、武蔵学園のDual Liberal arts collegeとしてのありようが、組織的にも確立した。おそらく正田が19773月に急逝せず、その学園経営がもう少しの間継続されれば、(学生生徒納付金以外の)新たな学園の収入源の開拓、大学における理系の第三の学部等、Liberal arts and sciencesの府として武蔵はさらに大きな可能性を獲得したかもしれない。

が、その夢を夢のままに遺して正田は急逝した。

それにしても、戦後学制改革以来の混迷を克服し、武蔵学園の社会的使命と、その進むべき方途を明らかにしたという点で、正田の事績はまさに「武蔵中興」の名に値すると言えよう。

14. 戦後社会と教育制度

戦後学制改革からの約15年間は、日本の社会全体にとっては高度成長への助走期であり、教育制度にとっても「学制改革の思わぬ結果」が次々と招来される混迷期であった。

まず社会についてみれば、財閥解体、財産税、農地解放そして学制改革も含めて占領軍による初期の諸施策は、社会の富を再配分してより平等な社会を作ることを求めた。それは、やや社会主義的とも言える色彩の政策であった。この時期の日本社会は、経済学者野口悠紀雄が指摘する「1940年体制」の経済構造が戦後も続き、「統制経済下の資本主義」「業界護送船団方式」によって迅速な戦後復興が成し遂げられていった。エネルギー等の産業リソースも、国民の零細な貯金の集合によって調達された資金も、すべてが中央官庁の統制下に集中配分され、それが結果的には奏功して日本は急速に敗戦期を脱した。要する所、戦後政治が自由主義化されたにもかかわらず、経済体制はかなりの程度に全体主義的な計画経済社会であったといえる。

一方、「1940年体制」は、また「企業社会」「サラリーマン社会」でもあった。戦後、農業、商工自営業、職人層の人口が漸減していったのに入れ替わり、製造業、貿易業、サービス業、流通業などの「会社」が社会の中心を占めるようになった。

この時代より少し遅れるが、筆者は、1970年代の末期つまり高度成長の直後に、一部上場の、しかしどこにでもあるような平均的な製造会社に就職した。その時代の経験によって、「戦後企業社会」とは概ねどのようなものであったかを想起してみたい。

l  同期16人の本社採用(今日で言う「総合職」)大学新卒者は、整然と「国立」「早慶」「その他私立」「理科系」の4人ずつの単位であった。社員番号もその順で付番された。(筆者は慶應文学部卒なので、8番であった)

l  当時の会社役員はほぼ全員国立大学卒で、私大出身の役員が出現するようになったのは、概ね新制大学卒が役員年齢に達する1980年代、筆者の入社後であった。

l  地方の支店に配属されてみると、このほかに地方採用者、今日で言う「一般職」の大卒者(だいたい地方大学の出身者)や高卒者のホワイトカラーがいた。が、給与体系がそもそも違い、私達今日で言う「総合職」の新卒は入社後約半年で同年代の一般職を追い抜き、その後はよほど出来が悪くない限り抜き返されることはなかった。

l  上記のほかに、ブルーカラーの工場労働者(概ね新制高卒、まれに臨時雇いから本採用に昇格した中卒)がいて、ホワイトカラーとは違う、やや低い給与体系であった。が、ブルーカラーといえども、下請中小企業の従業員や未組織の臨時雇いに比べれば、安定したかなり高水準の収入が確保されていた。

l  彼ら工場労働者の特徴を言えば、「組織労働者で全国型労働組織に加盟」「終身雇用」「年功序列」「勤務地変更はない」「超過勤務時間は少ない」であった。

l  ブルーカラー最高齢者の年収と会社役員の年収の間には数倍の格差しかなかった。

l  ストライキを伴うような労働争議はなかった。が、労組は惰性的に春闘の度にストライキを構え、いつもスト突入直前で妥結していた。

l  女性の労働者は(ホワイトカラーもブルーカラーも)少なくなかった。が、職場の扱いや評価の上でやや劣位に置かれ、有給取得の運用などの面でも実質的にはやや差別を受けていた。

l  女性大卒者のいわゆる「総合職」としての本社採用は当時まったくなかった。

組織の中で、将官(役員)になれるか佐官(中間管理職)尉官(第一線の責任者)で終わるかは、どの大学の出身かで決まった。士官(ホワイトカラー)と下士官兵(ブルーカラー)の別は大学卒か高校卒かで決まった。貧富の差は、戦前程ではなかったが、社会の序列はみごとに学校の序列と並行していた。上記のような社会で、たとえば、ホワイトカラー一般職やブルーカラーの工場労働者は、自らの子弟に、すくなくとも大学には行くこと、そして出来るだけよい大学に入って「総合職」となることを求めた。そしてそれは可能なことであった。

さて、それでは、このような「企業社会」の到来の中で、戦後学制改革は、どのような結果を招いたかを次に見ることにしよう。戦後烈しさを増した受験競争は、まさに上記したような社会階層と学校制度の関係を反映したものであった。

高等教育機関においては、「総合職の供給源」である旧制以来の総合大学、「一般職の供給源」である地方大学や新制になって出来た私立大学が画然と序列化される状況が生まれた。上記筆者の経験の如く、大学の序列は「総合職」「一般職」などの粗い区分を超えて、より細緻に、まるで封建社会の身分制度のように社会の序列に反映されていったのである。

Liberal arts and sciencesとの関係で言えば、全ての新制大学が、建前としては専門課程を置くことになった結果、奇妙なことにapplications諸学の供給過剰という現象が起きた。とくに法学部、経済学部などの文科系の学部の卒業生は、将来役員になろうとヒラのまま終わろうと、殆ど法律の専門家にも財政金融の専門家にもならずに「ただの会社員」として一生を過ごすことになった。工学部でも冶金や造船、一部の機械工学などの分野は技術革新、産業構造の変化によって国内で受け皿の企業が衰退し、卒業生は次第に鉱山や造船などの就職先を失って、違う分野のエンジニアに転じていった。このことは、戦前の軍学校、師範学校、高等工業、高等商業学校など職能学校の卒業生が、ほぼ確実に軍人、教員そのほかの職業に就いていったことの対極を為す。

筆者は、あえてこのことをapplications諸学のliberal arts化と呼びたい。もともと米国などのLiberal arts collegeから社会へ直接出ていく者にとって、fundamentals諸学は当該人の教養に過ぎず、職能は社会に出てから学ぶものであった。どのような職能を学ぶにしても、学ぶ者に基礎学力と教養があれば足りたのである。その意味で、戦後新制大学において、法律を学んだ者も、経済を学んだ者も、衰退産業の技術を学んだ者も、皆それらの応用学を「教養」として「企業人」となっていく社会が「戦後社会」なのであった。戦後社会においては、大学で何を学んだかは問われることが少なく、「どこの大学で学んだか」だけが問われるようになったのである。

このような、大学の序列化は、当然激しい大学受験競争を招いた。そして当然のことながら、大学受験に有利な進学校を求めて、新制高校に入学するための受験競争も激しくなっていった。

もともと戦後の学制改革は、すべての新制高校が「同じ顔をした存在であること」を理想としていた。したがって進学校、乃至は進学のための名門校が存在することは、学制改革の狙いにはずれたことであった。しかし現実には、東京だけでなく、地方の県庁所在地などには「旧一中」「旧二中」といわれる名門公立高校が存在し、一方で共学化によって新制公立高校となった「旧女学校」は、特に男子にとってはあまり名門ではないなどの格差が生じるようになった。その格差は、すくなくとも昭和40年代の初め頃までは「学制改革の不徹底」と捉えられていて、教育制度の手直しは、公立高校の個性を徹底的に奪い、教員も生徒も全部が教育委員会の共有物であるかのような方向をめざすものになった。

そしてついに、東京、千葉、愛知、岐阜、三重、福井各都県においては、高校入試において学校間の格差をなくし、激化する受験競争を「緩和」するために、「学校群制度」が施行されるようになった。これは、公立高校間の優劣個性を同時に奪い、生徒の志望をも無視して「希望する数校の群の中から成績如何に関わらず教育委員会が指定する公立高校に進学を命ずる制度」であった。とりわけ東京都において1967年(昭和42年)に行われた小尾雄教育長による学校群制度の導入は、当時東京大学の学校別入学者の上位を占めていた日比谷、戸山、新宿、西などの名門都立高校を根こそぎ解体するものとして大きな反響を呼んだのである。

13. 新制高校、新制中学としての武蔵

すでに指摘したとおり、学制改革直後の時点で、経済単科大学として発足した武蔵大学は新制武蔵高校卒業生の受け皿としては、著しく不都合であった。

そもそも卒業生の半数(より多いこともままあった)が理科系志望であることに加えて、法科、文科の志望者も少なくなく、経済学部志願者の卒業生に占める割合はそれほど高くなかった。1948=昭和23年学制改革直前の旧制武蔵高等学校卒業者の構成を見ると、文科54名理科63名、経済学部に進んだ現存者は判明した範囲で8名(物故者不明者を分母から差し引いた比率で約8%)である。

さらに、学力という点では、多くの生徒が東大、一橋大、慶應義塾大など有力な経済学部を抱える都内の大学に進学可能であったのだから、そもそも武蔵大学経済学部に進む理由はあまりなかった。 新しく生まれた武蔵大学には数人(整備が進んで後に十数人)の経済学の専任教員がいて、それなりに優秀な人も多く、かつ早くから「ゼミの武蔵」を標榜して少数教育で面倒見がよかったが、それにしても層としての手薄さは覆うべくもなかった。

しかし、学制改革後の約十年は、新制武蔵高校・中学にとってもまだ自らの位置付けに迷いの多い時期で、卒業生の進路も多様であった。その中で、武蔵大学への進学者は、増減を繰り返しながら、次第に減少していった。

社会を見渡しても、新制大学へのいわゆる受験競争は漸く激化しつつあったが、旧制中学の伝統ある都立名門高校(日比谷、戸山、新宿、西など)や旧制師範学校系の国立高校(教育大付属、教育大付属駒場、学芸大付属)そして旧制中学系の私立(麻布、開成、駒場東邦、桐朋など)、旧制高校・大学系の私立(成蹊、成城、学習院に加えて立教、青山など)等々様々の類型の高校が乱立して、それぞれの特色を作ることに腐心しており、武蔵にとって自らの位置付けと存在理由(アイデンティティ)を見出すことが難しい時代でもあった。

そのような他者との関係での混迷の一方で、内的な意味でも武蔵中学・高校は再発足後の約15年の間に、かなり大きな校風の変化を経験することになる。

旧制武蔵高等学校がその僅か四半世紀の歴史の中で急速に頭角を現し、都内では、一高、東京高等に伍して東京帝大への進学者を多数輩出するに至ったのは、第三代校長山本良吉の強烈な個性に依る所が大きい。山本の教育というものは、今日の武蔵の校風からは想像しにくいことであるが、生徒の自主性の尊重というよりは、年少者に対する独特の訓育方針(当時人気のスポーツだった野球を生徒に禁じる等あまり明確な根拠のない)を大人になりかけた高等教育予科の高校生にも拡張し、英才教育に徹するというものであった。

当時の教育を他者の言葉で引用すると以下の如くとなる。

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旧制武蔵高校は、山本良吉教頭(当初)の主導のもと、英国のパブリックスクールを模範とし、一学年の定員80人で純粋培養・少数精鋭の知的スパルタ教育を掲げ、当時流行していた野球を禁じ、ガリ勉を推奨した。それゆえ 東京帝国大学合格者数では及ばないまでも進学率で旧制第一高旧制東京高校等と首位の座を争ったこともあった。しかし、厳格な成績評価による留年、スパルタ教育に嫌気の差した生徒の退学が相次ぎ、当初の入学者数が卒業時には半数以下の38人になる年もあった(秦郁彦「旧制高校物語」文春新書)。 出典:Wikipedia 「武蔵中学校・高等学校」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1

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しかし一方で、山本の教育がガリ勉主義、英才教育主義であったからといって、Liberal arts and sciencesを無視したかといえばそうではなかった。むしろ化学者玉虫文一をはじめ、何人かの超大学級の頭脳を教員に迎え、知的に高いabilityをもつ年少者に、高度のアカデミズムの動機づけをした結果、山本(1942年に急死)最晩年及びその少し後くらいの卒業生中からは、多数の一流の学者・研究者を輩出している。

さて、学制改革後の武蔵高校・中学にはそうした山本イズム崇拝の気風がまだ色濃く残っていた。これをあえて「訓育主義」と名付けるとすれば、戦後多数の教員が退職したり大学に去ったりした後に入れ替わった若い教員達(その中には、後に教頭から第八代の校長となり、今日の武蔵校風の始祖となった大坪秀二もいた)の間には、「自ら調べ自ら考える」の建学理想をいっそう敷衍して、よりリベラルで生徒の自主性を尊重する武蔵をつくろうという思潮(あえて名付けるとすれば「ラディカル・リベラリズム」とでもいうべきか)もあった。そして、新制初期の15年は、この「訓育主義」と「ラディカル・リベラリズム」が交互に顔を出し、せめぎ合いながら並立する時代であったとも言える。

12. 単科大学としての武蔵大学の発足

東京連合大学構想の挫折とともに、私立の旧制七年制高等学校は、1948=昭和23年の初夏から秋にかけてのきわめて短期間に、自校の大学を整備する努力を開始した。学習院(厳密に言えば8年制であった)、成蹊、成城三校はすでに戦前から、幼稚園、初等学校を運営してきた一貫教育の伝統があり、よって中等教育機関(新制中学、新制高校)の設置は当然のこととし、旧制高等学校の「上方向の読替」である新制大学の整備のみに腐心することが出来た。それにしても、旧制大学に伍して専門課程を整備するのは容易ではなかったであろうが、これら各校はいずれも複数学部を備えた新制大学として発足し(とくに学習院と成蹊は理工系の学部を持つことが出来た)やがて、学部数を増やして新制大学の体裁を整えていった。

これら各校の新制高校卒業生は、はじめは東京大学などの旧制からの大学に進む者も多かったが、やがて自校の新制大学の整備が進むとともに(さらに言えば後述の大学受験競争の激化もあって)、かなりの比率の卒業生が自校の大学に進むようになった。

武藏大学、甲南大学も含めてこれら旧制七年制高等学校の設立した五大学は、ことの本質においては、研究者を教員とする専門課程を重視するUniversityと言うよりは、むしろ教養教育と人格教育をタスクとする教員によって担われるLiberal arts collegeとして発展してきたと言うべきであろう。これら新制五大学の卒業生は、ほとんどが卒業後すぐに就職し、組織の役員たらずとも、担当者や管理者としては有用の役割を果たす存在になっていったのである。その意味では、これらの大学は戦後企業社会の中堅管理者を養成する「士官学校」としての役割を担う存在となったと言えよう。

しかしながら、学習院、成蹊、成城等と比較しても、武藏の歩みはより迷い深いものであった。武藏は、敗戦前のある時期には東京帝大理学部などで入学者数が一高を凌いだこともあり、「一貫教育」の伝統を持つ三校よりは官立の東京高等学校に近い、やや「英才教育」色の強い伝統と校風であった。また自校の初等教育機関を持たないと言う意味では、「孤立した純正の旧制七年制高等学校」であった。戦後の学制改革によって、自らの存在基盤を全く堀崩されてしまった者は、武蔵高等学校をおいてなかったかもしれない。

武藏の試行錯誤は、まず「新制大学・高校」設置案から始まった。この案は、単純に言えば「旧制七年制高等学校の上方向への読替え」であった。それとともに、義務教育が新制中学校にまで拡張されたので、この新制中学の部分は武藏のタスクではないと言う一部の考え方も反映されていたかもしれない。(武藏は1947-48年の二年間尋常科募集を停止している)しかし、「新制大学・高校」設置案はすぐに「従来の旧制七年制高等学校の教育課程からして、新制中学を附置しないことは考えられない」と言う反論を招き、「新制大学・高校・中学」設置案に発展し、これと創設時からの経緯を標榜して大学新設に反対する「新制高校・中学」設置案が対峙することとなった。

大学新設に最も慎重であったのは、当時の財団法人根津育英会理事会とくに若年の根津理事長を後見していた宮島清次郎であったという。(学制改革のこの時期、理事会は学校経営への自信を喪失していたという指摘もある)そして、大学新設をためらう理事会に対して、東京連合大学構想以来大学設置に執念を燃やす校長の宮本和吉と、当時学校の経営に深く関わっていた父兄会の努力によって大学設置が実現した(「武藏大学五十年史」)ということになっている。

このせめぎ合いは、新制武藏大学の学部構成に思わぬ影響を与えた。旧制武蔵高等学校の教員構成から自然に想像される新設学部は11.で見たように文学部と理学部である。

が、理事会側にしてみれば、数年前までは東京帝大理学部などで入学者数が一高を凌いだこともある武蔵高等学校の卒業生が、そのような文理科大学に満足して進学するとも思われず、かつ経費の観点から理科系学部を経営することにも自信が持てず、文科系しかもやや功利的な響きのする「経済学部」だけならなんとか経営できるということであったのだろう。

一方、宮本校長等は、おそらくその「経済学部」に「文理科」的要素を込めたいと考えて苦心の「経営科学科」という学科名を生み出してみたが、これは当時の文部省にあえなく拒絶され、拙速で経済学部経済学科のみの単科大学を発足させることになった。

19489月に着任し、文部省の与えてくれた大学設置認可申請の差し替え期限に間に合わせるべく、この経済単科大学の専門課程を僅か2-3ヶ月で作り上げたのが、宮本和吉校長の京城帝国大学時代の同僚鈴木武雄(財政学・金融論)であった。もっとも鈴木が武藏大学に招聘した数人の専任教員は主に経済史などの専門家(武蔵学園史年報第3号向山巌「教授会記録抄解題」)であり、いずれも理事会が想定したような功利的な意味での「経済学部」の担い手ではなかった。

なお、「大学・高校・中学」設置案において、中学定員は一学年80人、高校の定員は一学年100人、大学の定員は一学年120人で、高校卒業生に理系志望者が約半数いること等を勘案すると、新制武藏大学は当初から外部からの進学者を多数想定していたことがわかる。また、武蔵高校から武蔵大学への1949年度以降三年間の内部進学者は、武蔵高校同窓会名簿から算定すると、それぞれ19492人(2.3%)、195012人(18.8%)、19514人(5.7%)(同窓会名簿には物故者の学歴記載がないので、物故者分は、実数、分母、分子からともに除いてある)となっていて、草創期にあってすら内部進学者の比率がそれほど高くないことを示している。

その後、成蹊、成城、学習院各大学が、複数学部を整備し、漸くLiberal arts collegeとして、社会の中での役割を確立していったのに対して、経済単科大学として出発した武蔵大学は、社会の中で明確なポジションをなかなか見出すことが出来なかった。そもそも、経済学は、その目的が社会の福利や社会変革であっても、あるいは企業利潤であっても、solutionを求めるという意味では、法律学などとならんでapplications諸学(応用学/職能学)に類別されるものであって、liberal arts(基礎学/教養学)ではない。が、当時行われていた歴史主義的な経済学アプローチにしても、あるいは数量的、社会工学的な経済学アプローチにしても、卒業生が職能として経済学部で学んだことを活かすには、社会の側の門戸はあまりにも狭かった。

それでも、武蔵大学経済学部が発足後しばらくして設置した経営学科は、中小企業の後継者を育成する等の職能教育機関として機能する面があった。が、経済学科について言えば、多くの場合「教養として経済学を与える」教育機関として機能するしかなく、卒業生の殆どは「ふつうのサラリーマン」として、社会に巣立っていったのである。これは戦後の法学部、経済学部出身者の殆どの運命でもあった。ただし、武蔵大学の場合、「職能学である経済学を教養として与える」教育機関が、「単独で」存在するという意味で、その矛盾がより顕在化してしまうということはあったかもしれない。

11. 東京連合大学構想とその挫折

さて、旧制七年制高等学校が新制大学になっていく時点で、一つの大きな機会を逸したというエピソードにここでふれておきたい。

それは、天野貞佑、安部能成(学習院)、宮本和吉(武蔵)、高橋穣(成城)らによる「東京連合大学構想」である。これは、旧制七年制高等学校が、単独で新制大学を整備するのに困難があるので、各校が自ら校風伝統にあった小カレッジを整備し、各校の新制高校卒業者が自由にその小カレッジを選択する(さらには新制大学の教養課程から専門課程に進む際にもある程度自由に専門課程を選択できる)形で、「緩やか連合大学」をつくろうという試みであった。この連合大学構想は、各校のトップの間で偶々私的交流が強かったこともあって試案段階まではまとめられたが、各校内部での意見調整ができず、その間に急速に各高等学校が独自の大学整備を進める必要に迫られたこともあって、結局「幻の構想」のまま終わった。

この構想は、一説にはロンドン大学と各カレッジの関係をモデルにしたものいわれ、Liberal arts and sciences教育を中等教育段階から与え、その結果を大学専門課程において全うするという意味で、かなり理想的なものであった。これが実現していれば、各校の新制高校卒業者は概ね自らの志望に合致する何処かのカレッジの学科を見出してそれに進学することとなったはずである。また、その後の戦後社会の発展とともに、東京連合大学は、首都圏で早稲田、慶應に伍する有力な私立大学になることができたかもしれない。

ちなみに、武蔵学園史年報第2号所載の四校協定書(ただし各校経営機関の決裁後のものではなく、実際には試案的に扱われたものとみられる)から各学校が整備するはずであった東京連合大学の学部学科を拾うと、次の通りである。

l  学習院 文政学部(政治、哲学、文学科)理学部(物理、化学科)

l  武蔵 文学部(国文、英文学科)理学部(数学、化学科)

l  成蹊 政経学部(経済学科)工学部(機械、建築、土木、工業経営学科)

l  成城 経済学部(経済学科)文学部(国文、英文学科)[農学部(農芸化学科)]

この協定書には、各カレッジの学部別各校別定員の表(各校から各カレッジの学科に何人進むことが出来るか)まで付録としてついていて、短い期間(1948=昭和23年の前半約半年間)ではあったが、かなり突っ込んだ検討が行われた跡が見られる。

この連合大学構想の挫折の理由は、ひとえに今も昔も学校というものが短期間に大きなことを決められない存在であると言うに尽きる。やさしく言えば、旧制七年制高等学校は、社会の急速な動き(戦後の学制改革)について行くことが出来ずに機会を逸したのである。さらに、このような連合大学を拙速で発足させたとして、果たして成功したかどうかもわからない。おそらくは、独自の校風伝統を築いてきた各校の自主性を活かしながら、組織としての連合大学を経営していくのは容易ではなかったであろう。

しかし、この構想には、Liberal arts and sciencesの行方を無視しがちであった戦後の学制改革に対し、Liberal arts and sciencesの輝ける揺籃であった旧制七年制高等学校側の鮮やかな対案と夢が込められているように思われる。この時代から60年が過ぎた今日なお、この大きな逸機は惜しまれるのである。

補足として、東京連合大学構想は1990年代末期に現在の国立大学法人発足に際して、一橋、東京工業、東京外国語、東京医科歯科、東京芸術各大学を同一法人下のカレッジとする構想として再燃した。このときも「学校というものが短期間に大きなことを決められない存在である」故に構想は挫折し、各個の大学は別々の国立大学法人としての歩みを始めている。

リベラルアーツ、武蔵学園の20世紀後半 10.旧制七年制高等学校の解体

戦後の学制改革によって、旧制七年制高等学校は解体され、発足以来僅かに四半世紀で、Liberal arts and sciencesの理想的な揺籃としての、栄光ある歴史を閉じた。これら旧制七年制高等学校の内、官立の高等学校は概ね新制東京大学や都立大学等に吸収された。

東京高等学校は、高等科が一高と共に東京大学教養学部に、尋常科(中等科)が東京大学教育学部付属高校・中学に解体再編され、各々別の学校になった。

私立の旧制七年制高等学校、武藏、成蹊、成城、甲南はそれぞれ新制中学・高校と新制大学となったが、それに至る過程はやや複雑であった。

学制改革において、三年制の旧制高等学校が廃止され、そのかなりの部分は新制大学に移行した。大学の専門課程に殆ど自動的に進学できる高等教育予科機関としての高等学校は完全に消滅した。従来これらの高等学校に進学してきた学生層は、新制高校から新制大学(しかも多くは旧制からの伝統ある総合大学)に直接進学するようになった。多くの旧制高等学校は、教員だけが残って、単科大学や文理科大学をつくり、従来の旧制高等学校進学者とは違う層に、専門課程を含む教育を施すことになったのである。(四高、五高、六高、七高などの例)また一部の旧制高等学校(一高、二高、三高、八高など)は新制総合大学の一般教育課程になっていった。こちらの方は、学校の伝統と様態は完全に失われたが、実質的な教育内容は従来と大きくは変わらなかった。

さて、私立の七年制高等学校の場合、旧制の時には、この学校の尋常科(中等科)に入学できれば、旧制大学の専門課程にほぼ自動的に進学できるというきわめて特権的な学校であった。学制改革により、その存在の根拠は完全に失われた。そこで、おそらくは二つの方途をめぐって、旧制七年制高等学校の内部で論議が戦わされたと推察できる。

それは、次の二つの道であった。

l  地方の旧制高等学校の多数がそうであったように、自らが旧制高等学校を発展させて新制大学となり、その予科として中等教育機関を付置する

l  旧制大学を継承したような伝統ある新制総合大学に進む六年制(旧制七年制を一年だけ短縮した)の新制高校・中学として再出発する

だが、前者となるためには、旧制総合大学に伍し、それと競うことの出来る高等教育専門課程の整備をはかるという経営的な課題をクリアしなければならなかった。一方後者を選んでも、新制高校の卒業生は「旧制高等学校を新制大学で追体験する」という矛盾に直面しなければならなかった。たとえば、新制武藏高校を卒業して新制東京大学に進学するとすれば、行き先は駒場の教養学部であり、東大駒場は昨日のライバル一高や東京高等学校の後身なのであった。

結論を言えば、すべての私立七年制高等学校は前者を選択した。

その理由は、当時としては「上方向への読替え」が自然に行われていたからと言うことも出来よう。が、あえて言えば、新制大学教授となるのと、新制高校教諭になるのとでは社会的地位や格式が断然違ったから、それにこだわるような教員は前者を志向し、一方生徒の立場から言えば仮に旧制高等学校を追体験しなければならいとしても、評価の定まらない自校の大学から直接社会へ出るよりは、旧制総合大学の伝統を持つ大学を経て社会へ出たいという意味で後者をより望んだのではないだろうか。(もちろん中等教育から生徒にLiberal arts and sciencesを与えることに依然情熱を持つ教員もいたし、自校が新たに創る新制大学に夢を賭けてそれを志望する生徒もいた)

なお、中学と高校に分かれる中等教育機関について言えば、学習院(従来から)、成蹊、成城が「一貫教育」を標榜しつつも両者を分けた組織としたのに対して、武蔵は再出発に際し暫時の試行錯誤の後、同一教員同一組織の六年制中高一貫教育を志向した。(甲南については未詳であるが、現在は「武蔵型」に近い)

8.中間的なまとめ

これまで、近代日本の学制の変遷を見ながら、一般論として日本の教育の中でLiberal arts and sciencesがどのように扱われてきたかを論じてきた。今後個別武藏学園の問題について論述に入っていく前に、これまでの論じてきたことをまとめてみたい。

l  Liberal arts and sciencesとはなにか

       i.          Liberal arts and sciencesとは、人文科学・自然科学の謂いであり、「哲学」に淵源する。それらは西洋中世諸学の末裔である。概ね大学の文学部が講じてきた、哲学、倫理学、美学、歴史学、文学、語学などと、大学の理学部が講じてきた数学、物理学、化学、生物学、地学などがその原点である。今日なお欧州で博士をあらわすPhDDoctor of philosophyの略語であるし、修士をあらわすMAMaster of Artの略語である。

      ii.          Liberal arts and sciencesとは、Applications諸学に対するFundamentalsである。たとえば、法学、医学、工学、経済学のように、なんらかのSolutionを求める学に対してLiberal arts and sciences は、study自体を目的とし、Applications諸学の基盤となる。その意味で、近代に入ってから情報科学、生命科学、社会学、心理学等がLiberal arts and sciencesの範囲に加わる。

     iii.          Liberal arts and sciencesとは、職能教育に対する普通学である。Liberal arts and sciencesは、どのような職能を修める者にも必要な、人間としての基礎的な知の集合である。

     iv.          Liberal arts and sciencesとは、教養を通じた人格教育である。Liberal arts and sciencesを修める期間中、学校で生徒学生は、文化芸術、スポーツ、自治活動などの課外活動を通じて、実社会での活動をトレースした演習を行い、あるいは恋愛、進路、政治社会等折々のテーマで思索を深め、かつ教員や朋友と議論することも求められる。これらをつうじて、ティームにおいて役割を分担することや、人間としての識見を学び社会の成員としての自己を磨くことが出来る。

l  Liberal arts and sciencesの対象

       i.          高等教育課程の予科は、Liberal arts and sciencesの主要な対象である。

      ii.          abilityのある年少者を学問と知の世界へ誘導するという意味では、中等教育の全期間がLiberal arts and sciencesの対象である。

     iii.          職能教育を行う課程においては、職業人である前に社会人基礎力を涵養する期間がLiberal arts and sciencesの対象である。

     iv.          専門的な職能を実社会に入ってから学ぶ機会が多い米国のような社会では、社会人への最終過程がLiberal arts and sciencesの対象である。

l  社会階層と教育制度

教育制度が社会の階層性を固定するのか、社会に階層性があるから教育制度にそれが反映されるのかをあえて問うとすれば、それは後者である。経済社会が、その時々の社会階層を生み、それぞれの社会階層が自らに対応した教育を求める。その意味で、成熟した社会では、教育制度は「複線型」たらざるを得ない。(米国社会において「単線型」が可能であった理由は、近代を迎えた時点で米国はまだ若い社会であり、社会階層自体が未分化で、また専門的な職能を学校教育によってではなく、実社会に入ってから学ぶ機会が多かったという特殊性による)

一方で、技術革新がもたらす経済構造の変動によって、社会階層はつねに流動するから、教育制度とくに職能教育制度を固定し続ければ、そのような制度は社会のニーズに対応できない「反動的」なものに陥らざるを得ない。したがって、成熟した社会において求められるのは、「つねに変化する複線型の教育制度」ということになる。このような変化は、学校教育制度を法律によって固定するのではなく、公立私立を問わず、学校自体が社会のニーズに対応して自ら変化できるような、market orientedな学校経営によって可能になる。

l  欧州型と米国型(早熟と晩成、専門教育と一般教育)

これまで、日本と欧州各国、米国の教育制度を比較してきたが、要約して言えば、日本(旧制)と欧州は早熟であり、米国は晩成であることがわかる。旧制日本の中学四修、旧制高校三年と旧制大学三年で卒業したとすると、専門課程修了は22歳である。一方米国の場合、6.3.3.4の最終課程がLiberal arts collegeまたはUniversityの予科とすると22歳で日本の新制短大卒となる。

欧州型が早熟なのは、社会階層を反映しているからである。社会の様々の分野に進んで専門家になる上での基礎をLiberal arts and sciencesに求めた。英国においては、軍学校、London大学の諸課程などは年齢的に見ればOxford, Kenbridgeなどに並行している。これらはいずれも、大学進学資格試験を通ったものが、各々の教育機関の選抜試験を経て進学するものである。そのありようは完全な「複線型」である。このような社会においては、Liberal arts and sciencesは専門教育の前提である。

米国型が晩成なのは、米国が一部を除いて専門家を求めない社会だからである。Liberal arts and sciencesを学んだ者がそのまま社会に出て、社会の営みの中で職能を身につけることが今日なお米国の慣習である。戦後の米国大統領の経歴を見ても、必ずしもLaw school, Business schoolなどの出身者ばかりではない。このような社会においては、Liberal arts and sciencesは社会に直結する一般教育General educationである。

l  戦後学制改革のねじれ

戦後学制改革が、ある種のねじれを招来したのは、学制改革を強く支持した米軍当局者と、南原等日本の学制改革推進者が同床異夢であったからである。すなわち、米国人が想像した新制大学はLiberal arts collegeまたはUniversityの予科であり、南原等が想定した新制大学は専門課程を持つUniversityであった。実態はと言えば、戦後新設された高等教育予科や職能学校をベースにした新制大学は主に前者であったし、旧制から存在した大学は帝大も私立も含めて後者であった。しかもこれらが、並立して全て「新制大学」とされたことが、すなわち戦後学制改革のねじれの実相である。

l  ベクトルとスカラー(戦後教育制度の本質的な問題点)

イデアとしての「自然状態」や「原始共産制」は知らず、実際の人間社会は歴史上のどの時点どの地域をとらえても、なにがしかの職能分化があり、さらにその職能を組織する社会階層秩序があった。それらの職能分化や社会階層秩序を形作ったものは技術革新とそれが然らしめた社会の経済構造であった。

近代社会では、人は皆平等であり、職業に貴賤はないと説く。しかし、職能に貴賤はないからと言って職能に区別がないわけではない。また四民平等の民主主義は、役割としての指導者の存在を否定するものではない。

凡そ、社会は野球ティームのようなものであり、野手、投手、捕手と機能の別があるし、監督、コーチ、キャプテンもいる。近代社会の説くところは、それら役割は違っても、ティームの一員の間には、控え選手も含めて貴賤はないということのみである。

さてそれでは、あるとき打撃、守備、走塁、投球等の試験を行い、得点によって全ての選手に一律の序列をつけ、偏差値の高い順に好きなポジションを選ばせたとしたら、そのティームは強くなれるだろうか。

戦後学制改革によって招来された「受験社会」とは、まさにこの例え話の世界である。

すなわち、場合によっては中学、そして高校、大学の各進学フェーズで全国一律同世代の「偏差値による序列化」が行われ、偏差値の高い順に志望校に入学できるのが「受験社会」である。

教育は本来、個人の適性を判断し、適性のある方向に才能を伸ばしていく事業である。少年少女は、中等教育のどこかの時期に、親や周囲の人の姿を見て、あるいは何かの情報で知った職業や職業人にあこがれを持って志を立て、その志を実現するために、最も適性のある高等教育機関、準高等教育機関をめざす。戦前日本の学校教育制度は、「貧乏故に上の学校に進めない」という問題を解決さえすれば、それなりに合理的なものであった。が、戦後の「単線化」は、あらゆる教育機関から個性を奪い、序列化された「同じ顔をした学校」の集合としてしまった。少年少女は志を立てなくなった。

人間の能力は、方向と長さを持ったベクトル量である。教育は個々人のベクトルが最も長くなるように伸ばすタスクを負っている。そのことは、全国民の同世代の能力を、同じ基準で輪切りに評価し、優れた者から指導層、中堅層、健全な基盤層、そして「落ちこぼれ」と順に区分していくことができるという、「人間能力のスカラー量的な評価」とは相容れない。戦後日本の教育制度の本質的欠陥は、この矛盾に存すると言える。

しかし、私達はこの矛盾する現実に生きているのであり、敗戦直後のように「反省」の上に立って学校教育制度を根本的に改変してしまうような機会を持たない。然からば、個としての私立学校がこの矛盾にどのように立ち向かっていけるのかを、次章以下で考えてみたい。

«7.戦後学制改革が招いたもの

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